散文
目を覚ますと昼前で、既に定時で動いてる殆どの勤め人は家を出て電車に乗り午前の業務を終えて一息ついてたりする。幾つもの当たり前のルーティンワークの集積で平日の昼前の家の中は空き家感は相対的に形成され、外の空気は間延びしている。
昼休み。
僕もアルバイトながら定時で動いていた時期があった。当時、その昼ごはんを昼時に食べるという普通が耐え難いものがあった。
そういった集団組織の普通が駄目になったのはとりもなおさず義務教育の狭間。その義務と行動を制約する時間は僕には余りに長すぎたように思える。おかげで僕の以降の生き方はかなりシンプルになった。20代は結果、地べたを這う種々な自らの欲望に絡めとられていった。
今思うのはI hate youにも理由がなければ只の駄々っ子にしかならないこと。むこうみず。
遠ざけるのか遠ざかるのか、奴のフィールド魔法の中で。
世界を理由もなく呪う。自分は満足に創造に向かえていなかったから創造の中で自分を殺せないから、その眷属で溢れた街にいるお前たちを僕はすれ違う視線の鋭さだけで殺そうと、本気で試みたわけだ。同族嫌悪。写鏡。
自分が犯罪者になるか自殺者になるとはまるで思えない。手首だって切れない怖くて。ただ、死という領域について言えは特別なく地続きなものであって、そうであるなら急にやってくるもんだとただ思ってる。
死の行使者に自分がなれるか。なれない。それはとんでもない驕りだろう。手の中にあるというのが行使の本分なら誰の手にもそんなもんあるわけない。
それはそれとして男の中にはお前ら全員殺して俺も死ぬという美学のようなものが誰にもあると思う。それは男は誰しもがまがい者、偽物だという自覚があって、この根底にある本能の部分でのコンプレックスが故に皆、一掃という浄化願望がある。それが男の中で完成形の美しさだと信じていたりするんじゃないかと思う。
大事な事を付け加えておく。男なら誰しもというより、美醜の分別のつく男ならなお一層ということ。
僕の友人で死んだ人は幾らかいる。皆、10代だった。
快活さ故にふと彼岸にも飛び越えてしまう、そんな人達だった。
彼らの身軽さ、神聖さ、無垢さ、操の蘭々。。
彼ら彼女らには羽はなかったが大層軽そうにみえて危なっかしかった。
中秋の名月を見上げながら
僕は小さい頃からよく習い事に行っていて送り迎えはいつも母の車だった。当時は両親が戸建てを買う予定だったので週末には国道沿いの住宅展示場に行っていたもんだから、幼少期から小学生中頃までの記憶はいつも車の中だった。それでよく覚えてるのは夜の車内で夜空に浮かぶ月をひたすら目で追っていたこと。ずっと追いかけてきてる月をワクワクしながら眺めた。
ただ、母にも姉にも訊ねなかった。昔から解釈を求めない性質だった。ただそこにある不思議を感じるだけでよかった。
僕の月というイメージ数珠繋ぎ
月→fly me to the moon→Moon river→oldies→ライオンは眠っている→サン=テグジュペリ→羊飼い→出エジプト記→ミヒャエルエンデ→童話→神話
別分岐
oldies→ディズニーランド→ミッキーマウスのフィンタジア→somewhere over the rainbow→ブティック→オフィス街にある真夜中のとあるビルの地下プールで泳ぐ人→ジオラマ→夜が剥がせるイメージ→シュールリアリズム