わたしの10代

幼稚園、小学校は幸い恵まれていてクラスにいじめもスクールカーストも無かったので楽しい日々を送っていた。

中学。この頃両親の不仲がピークを迎えており、ある日居間で二人は大喧嘩をした。たまたま二階の自室に居合わせていた私が激化していく二人の喧嘩を制した。普段、温厚で臆病な私は今までそういう事が持ち上がったら自室にただ逃げていた為、階下に降りていき父親に出て行け!と凄んだ時、彼はすっかり怯んで追われる様に実家を後にした。

そんな事があり、その頃から自分は他者の目を過剰に意識する様になった。今思うとそれは殆ど被害妄想に近かったと思う。僕も怯んでいた。愛に飢えていた。だから、僕だけを分かりやすく認めて仲良くしてくれる人だけを探していた。そうすると、今まで大人数で仲良くやっていた所謂、スクールカースト上位組達とは離れざるを得なかった。当時の僕は、色んな人と分け隔てなく上手に付き合える人を疑ったし憎んだし羨んだ。そうこうして、僕は明るいスポーツ少年から根暗なナイーブボーイになった。それでも、ただ一人きりで休み時間をやり切る様なタフネスは僕には無かったので、好きでもない、心の中では馬鹿にしてる様な連中に擦り寄った。かといって彼らも少数派のナイーブボーイだった為、一緒にいる事に特に不満は言わないがやんわりと僕を避けているのはその態度からも明らかだった。それでも一人きりだとクラスメイトに思われたくない一心で彼らの側を離れなかった。全くなんて痛々しい日々だろうと思わずにはいられない。

救いがあったとしたら一部の女子達(ご多分に漏れずナイーブな)が僕と仲良くしてくれた。一人の女の子なんてバレンタインデーに自宅までチョコを届けてくれたりもした。

 

高校。運動部に入るが中学でしてた部活動がママゴトだったので基礎体力も付いてなく春に入って夏前にやめた。結局、またしても他者の目の呪縛に捉えられ卒業まで僕は運動部を転々とした。スポーツをしているという事が自分のアイデンティティを保つ最後の砦だと思っていた。

集団生活やクラスメイトとのコミュニケーションがだんだん耐えられなくなってくるのがこの頃。とても仲のいい友人が二人いたが彼らは他のクラスメイトからも人気があって、また分け隔てなく関わっていたので僕は苦しかった。中学に発芽した惡の華がどんどん成長していった。

三人以上での会話ができなかった。繕う事が下手で変なタイミングで呼吸をして過剰に唾を飲んでいた為、終業のチャイムが鳴ると急いでトイレに駆け込んで膨れた腹に溜まったガスを出していた。毎日そんな感じだった。

僕を自由にする場は他者が存在しない、或いは自分が好きな人達しかいない世界だった。当時僕がよく考えていたのは、口に出して相手に何かを伝えながら頭の中には本音があるし、それが仕草や態度として僕には嫌というほど目についてしまう。そんな風にして他者と関わる事に消耗しない多数派のお前らは宇宙人だと、そう思っていた。

そして中学の頃の焼き増し。好きでもない連中とつるんだ。彼らがいいのはずっと同じメンバーで寄り集まってそこから出ようとしない所だ。中学の時とは違って彼らは僕を温かく迎えてくれた。

不良崩れの病弱、頭のネジが飛んだポンコツ。チビの貧乏臭いサッカー部員。私。大体、いつもこの四人でいた。

多感な時期だったが彼女はできなかった。ただ、また中学の頃と同じ様にクラスメイトの一部の女子が仲良くしてくれた。いや、今回は一部というか一人の女子、そして仲良くというよりかなり積極的に好意を寄せてくれた。30までにお互いにそういう相手がいなければ結婚しようとまで言われた。結局、彼女とは何もなかった。僕は彼女の制服がいつも犬臭いのが耐えられなかった。それから外向的で晴れがましくお節介でお喋り、やたらとスキンシップが多いのが嫌だった。僕の家にはじゃじゃ馬の様な母と姉がいて、彼女達と似た性質の女性にはまるで惹かれない。それは今でも。ましてや父との別居間もないささくれた我が家で居場所のなかった当時の僕には尚の事だったのだ。

 

 

 

 

卒業間近の頃は大学受験の追い込みも重なって抜毛症になった。始めは髪の毛がどこかでダマになっていると感じて、それを一本一本解いていこうとした。そうするとある部分引っ張ると気持ちいい所がある事に気づいた。気がつくと抜いていて、それが癖になった。

 

大学受験なんてほんと馬鹿馬鹿しかった。母は小さい頃から姉と私を習い事にたくさん通わせた。母は朝から晩まで自慢の左利きメルセデスで僕らの送り迎えをする運転手でいる事で母としてのアイデンティティを保ち、自分がないからありもしない世間の目を過剰に意識するプライドの高い女だった。それがピークを迎えたのが大学受験。このレース落とすのは怖いから馬券を全通り買うみたいな、およそギャンブルには向いていない楽しみ方を間違えた輩のように僕は何一つ学業面で彼女に信頼されず、一年の間に予備校、塾を転々とした。その間の記憶はカオティックで今では覚えていない。あれは母のコンプレックスの呪いに付き合わせる子供という格好だった紛れもなく。事実、息子の私は17歳にもなって全くの空っぽだった。自分が何をしたいとか野望、将来への展望など全くなかった。母の言う通りにだけしていた。

そういえば、その時期に覚えていた事が一つだけあった。予備校の入っていたビルにアダルトグッズ屋があって、そこに入るのが唯一楽しみだった。程なくして未成年だがレジ前には仕切りがあり客と店員は顔が見えない仕様になっている事に気づいてからは普通に自慰の為のグッズを買ったりしていた。ミヒャエル・ハネケの「ピアニスト」は私の話だ。

 

そんな泥臭い、金にモノを言わせる様なやり方で僕は現役合格を勝ち取ったらしい。