寝起き、北野武、黒岩あすかのアルバム

目覚ましをかける必要もなくたっぷり眠り、目を覚ますと昼を過ぎている。

完全に目が覚めるまでの余韻は、それは夢の由来なのか遠い昔に見た景色の中で僕が忘れてしまっていた、待ち人と再開できるみたいな感覚を覚える。ふと、泣きそうになる。

ドレスコーズの嵐の季節がまさにその情感を取り上げてくれた歌だと勝手に思っていたりする。

 

近頃、北野武映画にハマっていてサブスクにはないものだから、Amazonで注文して1作3000円程度なので月に1本買ったりしている。

その男、凶暴につき」から始まり、「ソナチネ」、「HANABI」と観た。

全部面白くて3回ずつくらい観た。もう少し他作も観たら感想も言えたらと思う。

 

何というか、やはり今この時期に自分が観るべき、読むべきものというのは人間関係を極端に排した人間には容易く向こうからやってくるなとつくづく思った。間違いなくこの3作は現状の自分に必要なトーンだった。

 

それで言えば黒岩あすかの新しいアルバムも良かった。いつからか私の中の季節は止まっていたという詞は村上春樹のいくつかの作品に出てくる邪悪なもの、不条理なものによって損なった、喪った人々の言葉と似ていて、あすかさんは自己の中にある呪いのようなものと孤軍奮闘し経過報告を音楽でしているような印象がある。ちょっと、あすかさんの表現者としてのバランス感覚は凄すぎると思う。

 

こういっちゃなんだが自己のトラウマや呪いについて表現者が向き合う時、大抵は醜悪な様相を呈して、結局それは誰かに「乞う」姿勢のままで発表されている。そういった執着や弱さをただただ見せつけるだけの作品を僕は不健康と呼んでいて嫌悪している。

あすかさんの、そういった部分での表現者としてのバランス感覚を僕は好きだったりするし、それは誰でも出来ることではないと思う。稀有な存在だよ。我々の界隈ではあなたの音楽は健康で良いものです。良いアルバムでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

散文

目を覚ますと昼前で、既に定時で動いてる殆どの勤め人は家を出て電車に乗り午前の業務を終えて一息ついてたりする。幾つもの当たり前のルーティンワークの集積で平日の昼前の家の中は空き家感は相対的に形成され、外の空気は間延びしている。

 

昼休み。

僕もアルバイトながら定時で動いていた時期があった。当時、その昼ごはんを昼時に食べるという普通が耐え難いものがあった。

 

そういった集団組織の普通が駄目になったのはとりもなおさず義務教育の狭間。その義務と行動を制約する時間は僕には余りに長すぎたように思える。おかげで僕の以降の生き方はかなりシンプルになった。20代は結果、地べたを這う種々な自らの欲望に絡めとられていった。

今思うのはI hate youにも理由がなければ只の駄々っ子にしかならないこと。むこうみず。

遠ざけるのか遠ざかるのか、奴のフィールド魔法の中で。

世界を理由もなく呪う。自分は満足に創造に向かえていなかったから創造の中で自分を殺せないから、その眷属で溢れた街にいるお前たちを僕はすれ違う視線の鋭さだけで殺そうと、本気で試みたわけだ。同族嫌悪。写鏡。

自分が犯罪者になるか自殺者になるとはまるで思えない。手首だって切れない怖くて。ただ、死という領域について言えは特別なく地続きなものであって、そうであるなら急にやってくるもんだとただ思ってる。

死の行使者に自分がなれるか。なれない。それはとんでもない驕りだろう。手の中にあるというのが行使の本分なら誰の手にもそんなもんあるわけない。

それはそれとして男の中にはお前ら全員殺して俺も死ぬという美学のようなものが誰にもあると思う。それは男は誰しもがまがい者、偽物だという自覚があって、この根底にある本能の部分でのコンプレックスが故に皆、一掃という浄化願望がある。それが男の中で完成形の美しさだと信じていたりするんじゃないかと思う。

大事な事を付け加えておく。男なら誰しもというより、美醜の分別のつく男ならなお一層ということ。

 

僕の友人で死んだ人は幾らかいる。皆、10代だった。

快活さ故にふと彼岸にも飛び越えてしまう、そんな人達だった。

彼らの身軽さ、神聖さ、無垢さ、操の蘭々。。

彼ら彼女らには羽はなかったが大層軽そうにみえて危なっかしかった。

 

中秋の名月を見上げながら

僕は小さい頃からよく習い事に行っていて送り迎えはいつも母の車だった。当時は両親が戸建てを買う予定だったので週末には国道沿いの住宅展示場に行っていたもんだから、幼少期から小学生中頃までの記憶はいつも車の中だった。それでよく覚えてるのは夜の車内で夜空に浮かぶ月をひたすら目で追っていたこと。ずっと追いかけてきてる月をワクワクしながら眺めた。

ただ、母にも姉にも訊ねなかった。昔から解釈を求めない性質だった。ただそこにある不思議を感じるだけでよかった。

 

僕の月というイメージ数珠繋ぎ

月→fly me to the moon→Moon river→oldies→ライオンは眠っている→サン=テグジュペリ→羊飼い→出エジプト記→ミヒャエルエンデ→童話→神話

 

別分岐

oldies→ディズニーランド→ミッキーマウスのフィンタジア→somewhere over the rainbow→ブティック→オフィス街にある真夜中のとあるビルの地下プールで泳ぐ人→ジオラマ→夜が剥がせるイメージ→シュールリアリズム

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑記

よく考えたら曜日感覚は勤め人だけが把握しておけばいいもので、僕のようなのっぺらぼうの日々をしてる人には必要のない概念だった。

 

29年前、僕はもう産まれていた。

何かを起こそうとか何としてでもやり遂げようとか、そんな気はないただの赤子だった。

自分と世界の間には距離がみえなかった。

相対という概念すらない、ただ全てが溶け合うカオスの中で生理感覚のみで世界からのリアクションに対した。自我までは全てが比喩で象徴でイニシエーションだった。

 

さっき、コインランドリーに行ったら、3つある内の1つだけが丁度終わった所で中の洗濯物はそのまま使用者がまだ取りに来ていないという状態だったので、中身を取り出して籠に入れて僕が改めて使った。その時は前任者と鉢合わせるのだけは嫌だからスピーディーに行動してさっさと自分のを回して出て行く事しか頭になかったが、家に帰ってきて少し思った。もしかしたら、こんなご時世だし洗濯物を他人に取り出されるというのは嫌なんじゃないだろうか、と。だったら、そういう可能性は台風の影響もあって利用者は多いかもしれないと踏んで、何だったら少し早めに様子を見に来て終わったのをしっかり見届けてれば誰かに出される心配もなかったろう。

 

僕は間違ってないけれど、こうなってくるとコインランドリーの時間表示のendだ。あれは終わってからどれくらい経っているかは表示されない。もし、僕が間髪入れずに終わった所でタイミングよく現れて洗濯物を出していたのなら、また入れ違いですぐ前任者が取りに行っていて向こうにもそんなに、、、、嫌々、やはり少しでもコロナ禍でその辺り神経質な人間なら洗濯物などという日々の雑事をかまけてこういうリスクもある事も承知でやってきているのならば、この人の自己でできる感染対策にはわきが甘い。嫌、どうしてもやむに止まれぬ事情があって自宅で洗濯ができない、若しくは、近日の台風の影響で、また仕事が多忙で折り合い悪く、たまたま今日この時間で、しかもこの後の予定で必要なものの洗濯乾燥がこれに含まれているのかもしれなかった場合などを考慮すると、、、、それでも僕と条件はほぼ同じだ。僕は今右手小指を骨折しており、また普段は手洗いで洗濯をしているんだから当然自力の人力の手洗い洗濯は難しい。コインランドリーを使う理由としてはかなり優等生だ。ならば、やはりどうだろう。人に洗濯物を触られたくないと思うなら時間通りに来るべきだった、という事になるのだろう。それくらいの想像力が及ばないくらいにはお前はこのコインランドリーの常連だ。

夢日記

最後の最後まで居残って嫌いな給食と向き合っていた夢を捕まえて、僕の意識はそれを、覚醒通りを走りながら再生していた。言うなればそんな感じの矢継ぎ早なちょっとした夢だった。

 

小学校の教室。僕が嫌いだったクラスメイトの若松くんが僕に凄んでこう言う。

「俺たち親友だよな?」

「違うよ。僕は君の事嫌いだもん。」と即答する僕。

それを聞いた若松くんはオーバーなリアクションをして、堪らず何かを言い返してきそうな素振りになったから、間髪入れずに僕。

 

「だってそうだろう?僕ら学校で会う以外に遊んだ事がないんだから。」

 

「そうか、、、そうだよな。」

と急にしんみりする若松くん。

 

「いや、実はかなり低学年の頃、一度か二度くらいは一緒に二人だけで遊んだ事があった様な気がする」と僕。

 

俯いていた若松くんが僕の方を見ると彼の左目に何かが付いてる。いや、くっついている。そして剥がれかけている。目頭に近い方がひらひらしている。若松くんは気にも止めず何かを話しているが僕にはもう彼の声は聞こえない。その出来ものが今にも取れそうで、ナマモノのようにグロテスクでクリーチャーのように妖しく動いてるように見えて気持ち悪くて少し吐き気がしたが目が離せなくなった。

 

すると若松くんは、ようやく気づいたのか、しかし、何の躊躇いも見せずに話しながら右手で剥ぎ取り、しかし隠すようにズボンの中に放り込んだ。座っているから丁度、トランクスの上にそれはあった。で、よく見るとそれは固焼けの目玉焼きだった。黄身にしっかり火が通って固形になっている様を見て吐き気はピークに達した。

 

僕は教室の後ろのドアを開けてトイレに行こうとしたら、廊下は黒いスーツと黒いサングラスをかけた、西洋人のように背の高い、さながらSPのような男たちがたくさんいた。連中を押しのけて男子トイレに入った。

 

やけに暗い。一番端の小便器の横に小さな窓があって沈みかけの夕日が見えた。僕は吐くのが怖いからそこからの眺めをじっと見ながら何とかその吐き気をやり過ごすのでした。

 

 

 

 

 

 

最初の詩

いつかそんな日が来るように

僕は祈りを灯りと喩え

 

朝白いままで陽光を待ち受け

目を瞑り具にそれを観察する羊飼い

 

ただ心は小さく喜びに震えている

地平線の隅から隅まで

月や星座とかつて親しく

風と木々には深々と辞儀を

 

まだ彼らには何も伝わらなかった頃

不思議な閃光を夜空に見

天蓋付きベッド座や

虹の彼方にで踊るバレリーナ

 

ずっと手の中を風が吹き抜け

ポケットはよく知るあなたで温か

明日の事など素知らぬまま

キスさえ知らなくていい

僕は男の子だった

 

 

 

 

 

 

 

9月に入って

随分、間が空いたがお久しぶりだね。

これからはもう少し懇意にするからご容赦願いたい。

ミッドナイトゴスペルを観始めた事がまた日記を書こうと決めた直接の理由だ。エクスネケディのインスタの日記のようなものもそこに含まれる。

 

健康とはあるがままの現実を受け入れている状態、エレベーターの喩え、マインドフルネス瞑想。

 

今の自分が陥っている要と突破口を一度にこのアニメは伝えてくれた。実はTM瞑想に関してはここ何年かずっとやり始めては続かず失敗してきた歴史があった。また瞑想に取り組もうと思う。

 

ここでイングマールベルイマンの自伝から抜粋

 

「イングマールベルイマン、あなたの唯一の哀れなところは、健康なものに寄せる情熱ね。そんな情熱は捨てるべきよ。そんなものは嘘っぱちで、怪しげで、あなたは自分のまわりに壁をつくり、決して乗り越えようとしない。あなたはトーマスマンのドクトルファウストのように梅毒持ちのあばずれ女のところに行くべきだわ。」

 多分彼女の言うことにも一理あるが、実のところは、ポップアートと麻薬にいかれた下らないおしゃべりにすぎない。この美しい天才的な女優は記憶といっしょに歯も失い、五十歳にしてある精神病で死んだ。すべて思いのままに生きた結果がこれだった。

自己を表現する方法を知らない芸術家というものは、危険な人間である。

 

以上。

日々の礎がない人間には消費に耐えうる表現は生み出せない。要するに脆弱で浅い。心を打たない。代わりのいくらでもある。

 

僕には思想も哲学も習慣も経験も挫折も狂気も殆どないに等しいのかもしれない。今の私は水ではない何か薄い色のついたぶよぶよとした液体でできた脳みそだ。日々の快楽の誘惑に溺れる。快楽物質の放出ではち切れて、また頓馬に身体を寄せ集めて脳を形取る。そこに音はない。思考の音がない。これは最早それ自体で完結しようとする現象体に過ぎない。僕である必要はない。

 

深いところに降りていきたい。

集中力と時間を自分の側につけること。

投げやりや浅い諦観は子供の所業。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢日記

ひどくリアルな夢をみた。

とある山を登っていた。しかし、そこは新手の新興宗教の活動拠点としていた山で、気づけば施設内に入り込んでしまっていた。

建物はバリのリゾート、セントレジスに近く、背の低い三角屋根の建物が円状に広がっており、半ば迷路のようになっている。縁側があったり扉が障子だったりしたので和風かと思えば、ドアノブのしっかりしたドア、西洋の壁紙、絵画があるような部屋もある。

私は何故だか分からないままにあちこち扉を開けて入り込んでしまい、ついに教祖が信者達に集会らしきものを開いている部屋を見つけてしまう。

教祖は50代半ばくらいの禿げた男で、目を瞑り瞑想しているであろう信者に耳元で何かを囁いていた。その信者を取り囲むように教祖の側近らしき女(これは40代半ばくらい)が信者の肩から背中にかけてさすっていた。集会所にはざっと20名ほどの信者がいた。

私は直ぐその場を離れて逃げなくてはと焦り始めた。

 

 

とにかく見つかってはいけない。静かに行動しよう。

 

元来たように戻ったはずが、気付くと縁側に出ていて、先は広い露天風呂であった。広いと言っても尋常ではない。レジャープール施設のそれくらいの大きさはある。しかも場所は山中の比較的なだらかな開けた、恐らく竹藪がたくさん生えていた場所だったのだろうが、竹藪はあくまで雰囲気作りとして点在的に残っているばかり。

よく見ると風呂には黒い人間のようなものがゆらゆら蠢いている。そいつを施設の職員が先が三つに分かれた黒い棒で串刺しにしては肩にかけた壺の中に入れていく。ここは地獄か。

 

私は怖くなった、もうここからは逃げられないのではないかと。

 

捕まってしまった。あれから、施設から出て露天風呂沿いに歩いて施設の全容を把握して下山の道を探れないかとも思ったが、職員は何故が外にはあちこちいる。施設内にはまるで人の気配がなかったのに。結果、諦めてまた建物の中を彷徨う羽目になったが、どこかの扉を開けた時、信者の男に見つかった。

 

最初、適当な嘘をついた。この教団に入りたい、志願者なのだと。私を見つけた信者は善人風で意気揚々としており、私の言葉にうんうんと慰めるような相槌をいれながら話を聞いてくれた。ならば、皆に紹介しようという事で、さっきの集会の行われた部屋に行った。どうやら集会は開けたらしくその奥の間の仕切りが外されて、集会があった部屋に残る者もいれば、奥の部屋で笑いながらおしゃべりしている人らもいる。

私は奥の部屋に連れられ信者達と談笑している教祖に会わされた。

 

 

彼は入所希望だそうですよ。

 

そうですか、遠い所までよくぞいらっしゃいました云々。

 

 

明らかに上っ面の会話をしているのはわかっていた、この教団の本懐は中々にやばそうだ。今日の所はパンフレットだけでももらって穏やかに帰れそうな雰囲気もなくはない。

いや、どっちだ。何かを企てようとする妙な緊張感や連帯感も感じない。ほんとに間違った人達の日常に入り込んでしまっただけの感じだ。

 

 

奥にあなたの荷物があるから取ってきてください。

 

教祖が言う。

 

あれ、おかしいな。僕は背中にリュックを背負っていたはずなのに。

 

奥の間にいけば色んな人の荷物が置いてある。等間隔に置かれているから色んな人の荷物という印象を受ける。

 

リュックが多い。

 

その中から自分の物はどれかと背を向けている間に複数の信者に身体を拘束された。抵抗はやめた。

 

集会が行われた、ちょっとした舞台の裏に小さな小部屋があり、そこに入れられた。

簡素な椅子に座らされ、教祖と側近の女、数人の信者に囲まれ、何故か教祖ではなく側近の女が色々と質問した。

その内容は覚えていない。

覚えているのは首を赤い紐で締め上げられたこと。

抵抗しないのかい?と女。

暴れると皆さんが大変でしょう

と私。

その後の事は分からない。そこで目が覚めた。