下敷き・割れる・マスターベーション

小学校の時、下敷きの両端をそれぞれ一対の手の平で軽く押さえて、その力の微量さ加減でそれが上下して、ぽわんぽわんという不思議な音がする、更にそれがうまく行くと何回も続く、音も力加減で微妙に変化する、という遊びが流行っていたけれど、私は下敷きが今に割れて、またその割れ方が爆風で大破した窓、その細かなガラス破片のように、遊んでいる当人に飛んで目に刺さる想像ばかりしていて、よくそんなこと出来るなあと一人思っていた。で、まあやはり、案の定力加減の下手なクラスメイトの何人かは歪な形で上下に割れた下敷きを僕に見せてくれた事があったし、正に割れる瞬間を目撃した事もあったが、どうやらその原料であるポリ塩化ビニルから出来た下敷きはそんな、それこそ(僕が想像した様な)歪な割れ方はしないのだそうだ。

しかし、割れるという事には何とも言えない恐ろしさがある。まず、予見が出来ない。たとえ、身構えていたとしても割れた瞬間の音、それから手に伝わる罪悪感を強く感じる鈍い振動とが一度にやってくるので、とても狼狽える。例えば、割り箸なんてものは、初めから割る事を前提に作られためずらしい代物であって、しかしそうであっても、二つに頑なに引っ付いているもの(途中まで裂けているが故に)を無理に剥がさなければいけないという事を考えずにはいられない程には固いそれを割るというのは矢張りそれなりの罪悪感は過ぎる。

また、下敷きにこれ、限っての話だが、これが安易に割れるというのは、しかし如何なものだろう。小学生は必ず持っているそれを、静電気なんかの遊びを吹き込んだ理科の先生なんかも、カラバリ豊富なそれを、上下に艶かしく揺らすと面白い音がなるそれを、どうだろう、下敷きが塩化ビニルで作られているのはこれ、結構な消耗品に仕立て上げているのは文房具業界の陰謀ではなかろうか。奴らは小学生男子から何回下敷き代をふんだ食ったのだろうか。好奇心旺盛な時分、退屈な大方の授業には必ず駆り出される下敷きが側にあっては、これで手遊びしないのは小学生に在らずとも言えるわけで。

話が割れる事の怖さと罪悪感について話していたのに逸れてしまった。
結局、何が言いたかったのかと言うと、たとえそれが割る事によって、要を成す様なものであったとしても割れてしまった瞬間にそれは急に自分の側に属するものになってしまった、という過失感と侘しさが胸に去来し、自分の別に向いていたはずの好奇心が別の形で目の前にみそぼらしい形で現れてしまったという、マスターベーションを覚えた時に感じたのと似た感慨を覚えていたんだなと今になって思ったりなんかしたんです。